2006.07.12

再びジャニナへの旅

 僕はキャビンを出てデッキの寝椅子に身を横たえた。上の段のベッドでマークが早くもいびきをかきはじめたので、早々に逃げ出して来たのだ。
 ジャニナ行きの客船は満員だった。エデの即位以来、旅客が飛躍的に増えたのだと荷物を運んでくれたボーイが言っていた。
 すぐ目の前で地球が青く輝いている。僕は習慣的に地表にパリの輝きを捜した。宇宙港まで見送りに来てくれたユージェニーと母さんは、そろそろオペラ座についたころだろうか? 見送るついでに久しぶりにオペラ見物をすると張り切っていたのだ。
 僕は上着の内ポケットから小函を取り出した。ロスポリ・ホテルで団長にもらった星の遺跡の出土品だ。銀色の滑らかな表面にレリーフが施されている。無数の★型がばらまかれた中を、トーガのようなものを着た不思議な顔立ちの人びとが楽しそうに飛んでいる。おそらくあの遺跡を建造した人びとだろう。遺跡の地下の施設を造った種族と同じかどうかはわからない。
「ここに私の運命が刻まれている」
 と団長は言った。
 あの人は、たった一人で扉の向こうに行くつもりなのだろう--そう思った。僕らの世界を後にして、このレリーフの人たちのたどった道を通って、どこか遠くの世界に行くつもりに違いない。
 だが、ジャニナにいればまた会える日が来るはずだ。
 僕は楽天的に考えることにした。
 僕には僕の仕事がある。
 ジャニナにはまだ問題が山積しているし、これからも様々な出来事に直面することになるだろう。
 マークと僕ではあまり頼りにならないかも知れないけれど、出来る限りのことはしたい。そんなことを考えながら、僕は地球を見た。次に戻るのはいつだろう--なんて考えながら。

 やがて、出港のベルが鳴り響いた。

Posted on 7月 12, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (40) | トラックバック (21)

2006.07.11

マルセイユの渚

 打ち寄せる波の音があたりを満たしている。
 一泳ぎしてきた体に潮風が心地良い。
「こっちに来たら? 冷たいシードルをあげるわ」
 ユージェニーが言った。でも、熱い砂に寝転がって風に吹かれているのが気持ちよくて、動く気になれない。
 砂浜に敷かれたシートの上に、パラソルと食べ物でいっぱいのバスケットと飲み物の入ったクーラーボックス。その周りにみんなが顔を並べている。
「早く来いよアルベール。ヴァランティーヌ特性のサンドイッチもあるぜ」ラウルは口いっぱいにアンチョビのサンドイッチを頬張ってご満悦だ。「やっぱり奥方に選ぶなら料理上手な女性だな」
「そんな旧体制的なことを言ってるからフラれてばかりいるのよ」
「あいかわらずユージェニーはキツイなぁ」
「私がキツイんじゃなくてラウルがユルイのよ」
「なんだそりゃ」
「頭がユルイってこと」
「うわ、キツイなぁ…」
 そんな会話を遠く聞きながら横たわっていると、今にも心地良い眠りに引き込まれそうだ。
「で、予定日はいつなんだ?」
「…いつだっけ、ヴァランティーヌ…」
「なんだよ、ダンナが出産予定日を知らなくてどうするんだ?」
「おいおい、勘弁してやれよ。マクシミリアンは任務でジャニナに行ってたんだから。俺のたっての頼みでさ」
「今をときめくドプレー閣下のご命令か。あんたの懐刀って格になれば、マックスの人生も順風満帆だな」
「政治の世界は浮き沈みが激しいからな。俺もいつ失脚するか知れたもんじゃないぜ」
「そうしたら俺の新聞で回想録を書くさ。おまえの場合、政治の内幕より別の内幕の方が興味深そうだけどな。踊り子の彼女とは別れたのか? 色々と噂の…」
「こらこら、ご婦人方の前で下品な話はよしたまえ」
「や、失敬失敬」
「それにしてもアルベールは何で寝てるんだ? せっかく久しぶりにみんなで会ってるって言うのに」
「子供なのよ。海に来るとヘトヘトになるまで泳いじゃう」
「どれ、俺ももう一泳ぎして来るか…」
 リュシアン、ボーシャン、ラウル、マックス、ヴァランティーヌ、ユージェニー、母さんと、モレル家の子供達の声も聞こえる。耳慣れた、それでいて懐かしい声が辺りを満たしている。あれはいつのことだっけ? 最後にこうやってみんな一緒に過ごしたのは。砂の上ではなく、草の上だった。嵐の来る前の、穏やかで輝かしい時間。
 草の上にいて、砂の上にいない--。謎なぞめいた言葉が頭の中を駆けめぐる。悲しいけれど、甘美な気持ちがないでもない。いや--と僕は思い直す--砂の上にだって、彼はいるはずだ。
 --眠りに落ちる直前、僕は確かにフランツの声を聞いたように思う。

Posted on 7月 11, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (10)

去っていく馬車

「正体を明かさずに立ち去るつもりですか」
 僕が詰め寄ると、団長は困ったように首を左右に振った。
「私は見ての通り、ただのサーカスの主宰者です。正体などというほどのものは持ち合わせていません」
 シャンゼリゼに宵闇が訪れようとしていた。
 僕は諦めなかった。
「この街であなたとご一緒するのは、これが初めてではないような気がしてならないのです」
「アルベールさん。あなたがどんな返事を期待しているのか、想像がつかないでもありません。

しかし…」 団長はしばらく薄暮の街並みを眺めやった。
「その人物があるいは生き延びていたとしても、もう二度と会うべきではないと思います」
「何故? あの人と僕は運命で結びつけられていたはずです。僕はもう一度あの人に会いたい。会って…」
「どうなさるおつもりです?」
 僕は言葉を失った。あの人に会って、ぼくはどうするつもりだったのだろう?
「閉じられた書物にこだわってはいけません。あなたの人生は、別の書物に書き記されるべきではありませんか?」
「でも、せめて、エデには…。エデと、そしてベルッチオとバティスタンには、あの人に会う権利があると僕は思います」
「彼らもまた、既に別の運命のもとにあると私は信じます……いや、差し出がましいことを言い過ぎてしまった。失礼をお許し下さい」
 団長は僕に顔を向けたまま、馬車のステップに脚をかけた。
「お別れです。あなたにお会い出来てよかった」
 馬車が動き出す。
「これからどちらへ?」
「一足先にジャニナへ戻ります」
「またお会い出来るでしょうか?」
「そうできれば私も嬉しい…」団長は自分の胸のポケットを指で突いた。

「あなたにお渡しした記念の品、あれをご覧なさい。あそこに私の運命が刻みつけられています」
 馬車は速度を増し、僕を置いて駆け去った。僕はその場に立ちつくし、遠ざかる馬車の尾灯を見つめた。
 行ってしまった--。
 おそらくジャニナに戻っても団長に会う事は出来ないだろう。彼の表情には、別離を予想させる何かしら静謐な気配のようなものが感じられた。
 エデは知っているのだろうか? 団長の正体を。
「アルベール…」
 僕の肩に優しく触れる手があった。
「ユージェニー…」

Posted on 7月 11, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (30)

2006.06.30

生きながら棺桶に入れられた気分

 マークと僕はロビーのソファで砂糖をたっぷり入れたショコラ入りの珈琲を飲んでいた。くたくただった。証言台に立って…というか、くくりつけられて、質問に答えただけだけれど、マークに至ってはソファにぐったり身を沈めている。
「砂糖の甘さが身に染みるな…」
 そう言いながら、まだ角砂糖を足している。とても正常な神経じゃない。
 僕は、団長とエデがしていたことを見たとおり話し、マークは僕が確かにあの夜”星の遺跡”にいたことを請け合う。証言と言えばそれだけだ。帝国の役人にしても同様だ。質問が複雑にステップ化されていたとはいえ、楽なものだ。脳に直接アクセスされながらじゃなければの話だが。
「でも、これでお役ご免ってわけだな…」
「ああ。こんなこと、何度もやらされたら、確実に人格が変わっちまう」
「結局、団長と女王は、”星の遺跡”の文明を、我々の手の届かない場所に追い払ったってことだよな?」
 マークの言葉に僕はうなずいた。
「これでとりあえず危機は去ったってわけだ。帝国はジャニナに差し向けた艦隊を即刻引き払うっていう話だし」
 本当にそうだろうか? ジャニナは安泰で、エデも安心して復興に力を注ぐことが出来るのだろうか?
 だが、そんな僕の思考は、ロビーのすぐ外に停められた馬車に向かう団長の後ろ姿に遮られた。
 団長はマントを翻し、足早に立ち去ろうとしていた。まるで一刻も早くパリを後にしたいとでも思っているかのように…。
「悪いが先に宿に戻っていてくれ」
 座ったまま何か言っているマークを残し、僕は団長を追った。何故だか、この機会を失ったら二度と会えないような気がしたのだ。

Posted on 6月 30, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (28)

2006.06.29

帝国と王国の狭間で…

「ジャニナは帝国と王国にとって特別な意味を持つ惑星です…」
 サーカスの舞台に立っている時と同じような口調で、団長は話し始めた。
 その内容は僕にとって驚くべきことばかりだった。
「ジャニナを特別な惑星にしているのは、”星の遺跡”……我々の文明以前にあの星を訪れた未知の種族が建設した太古の建造物であることは言うまでもありません…」
 僕は遺跡の地下で見た光景を思った。何かのトリックが施されていたのでなければ、あそこは別の惑星、あるいは別の銀河に通じていた。僕らが未だ到達していないレベルのテクノロジーの結晶…。それが僕らと異質な文明の所産だとしても意外ではない。
「帝国と王国は、その”力”を手に入れ、利用しようと試み続けて来ました。それが長きにわたる帝国と王国の争乱の原因の一つであることは皆さんも否定されないでしょう」
 僕は思わずリュシアンを見た。そんな話は初耳だった。だが、リュシアンは団長の言葉を肯定するようにうなずいている。
「我々より遙かに進んだ、そして異質な技術を手にすることは、両国政府にとって至上命題でした。いや、手にすることよりも、相手に奪われない事の方が重要と言った方がよい。なぜなら、この勝負に敗れることは、全ての覇権を相手に奪われることを意味したからです」
 僕はやっと理解した。ジャニナが王国と帝国の狭間にあって、相互の執拗な侵略の対象になっていた理由を。
「しかし結局、帝国も王国も、遺跡への”鍵”を手にすることはありませんでした。それは誰の手に帰する事もなく、眠り続けていたのです。私が、銀河辺境の打ち捨てられた惑星でそれを手にするまでは…そこの至るまでには色々と興味深い体験をしましたが、その話は、いずれまた別の機会に…」
 団長は微かに微笑みを浮かべて一同を見回した。
「私は遺跡の力をどう使うか考えました。それを使ってこの世界の覇者となるのも悪くない…」
 両国の高官たちが何事か耳打ちしあうのが見えた。
「しかし、権力の争いに巻き込まれるのはいかにも面倒です。そこで私は新しく即位したジャニナ女王に相談を持ちかけました。遺跡を”封印”し、そのテクノロジーを我々の歴史から永遠に切り離そうではないかと。幸いな事に、聡明なエデ陛下は私の言葉に多大な理解を示して下さいました。そして…」
 リュシアンが感慨深げな表情でうなずいている。
「私は遺跡を”封印”したのです」
 団長は証人席の僕たちを見て言った。
「両国政府の外交官の立ち会いのもとに…」
 驚きのあまり僕は思わず立ち上がっていた。
 列車での長旅、砂漠を行く駱駝、遺跡での一夜…あれは全てそのために仕組まれたことだったのか。
 背後の扉が開き、医療スタッフのような連中が棺桶の様な機材を運び込んだ。
「いよいよ生け贄にされるってわけだ」
 マークが不安そうに僕を見る。
「これより、証人への審問を行う…」
 リュシアンの声がした。

Posted on 6月 29, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (1)

2006.06.28

意外な場所で団長と出会った

「アルベール・エレラ、マーク・ストガルツキー。貴殿らは証人として当査問会に喚問された…」
 どうやら議長役を務めているらしいリュシアンがが厳めしい口調で言った。
 証人? いったい何を証言しろって言うんだ?
 僕は当惑してマークを見た。
 でも、彼にだって何をどうしていいか分かるわけがない。黙って首を左右に振るだけだ。
 巨大なホールの真ん中、すり鉢の底のような証人席に僕たちは座らされている。パールのような輝きを放つ、球形の空間。盗聴からも攻撃からも完全に防御された、気密会議専用の議事堂だ。
 もちろん、僕もマークもこんなところに来るのは初めてだ。リラックスしようと思っても、どうしても緊張してしまう。
 僕らの他に、男が二人、証人席にいる。外交官か軍人か、そのどちらも兼ねているのか、僕らと違って私語一つせず、落ち着いた様子で座っている。どこかで見た事があるような気もするのだけれど、誰なのかどうしても思い出せない。
 正面にはリュシアンの座る議長席。その周りを、後ろに行くに従って高くなる議員席が丸く取り囲んでいる。いつもなら大勢の元老院議員が顔を並べているのだけれど、今日はガランとしている。僕らの右側に見覚えのある顔が何人か…大統領、元老院議長、それに内務官僚らしき人物が数名、左側には、物々しい装束に身を固めた帝国政府の役人が同数、座を占めている。
「これから一人の証人が喚問される。貴殿らは証言を聞き、その後で幾つかの質問に答えられたい」
 その言葉が終わると同時に、証人席の前に用意された演壇に背の高い男が姿を現した。
「おい! これはいったいどういうことだ?」
 マークが思わず声を上げたのも無理はない。
 演壇に立ったのは団長だった。彼は自分を見下ろす一同に芝居がかった仕草で一礼し、口を開いた。
「ジャニナを巡り、帝国と王国は長きにわたって無用な争いを続けて来ました。今日、わたくしがその争いに終止符を打つ事が出来ることは、望外の喜びです…」
 僕はあっけにとられて団長を見た。
 ジャニナを巡る争いに終止符を打つ?
 彼はいったい何を言おうとしているのだろう?

Posted on 6月 28, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (6)

2006.06.26

豪華な控え室で手持ちぶさたな二人。

「そろそろ時間だな…」
 マークが懐中時計を睨み付けて言った。さっきから脚を小刻みに震わせている。
「落ち着け。そして貧乏揺すりを止めろ」
「でも、これからお歴々の前に引きずりだされるんだぜ?」
 朝方、宿まで迎えに来た公用車でエリーゼ宮に連れてこられてから、マークはずっとブツブツ言っている。
「アステカの生け贄みたいに、みんなの見てる前で心臓をえぐり出されるんじゃないか」とかなんとか。王国、帝国の高官が臨席する査問会に召喚されたのだ。平常心を失って当然かも知れない。
 マークが恨めしげに僕を見た。
「アルベール、おまえはよく落ち着いてられるな」
「何度も死線をくぐり抜けて来たからな」
 平静さを装って言う。半分ハッタリだけど、嘘ってわけじゃない。
 実際、あやうくカザンザキス氏に命を奪われるところだったし。
 あのとき、間一髪でマックスが現れなければ、僕はこの世にいなかった。
 後から考えると、僕は(おそらくカザンザキス氏も)、最初から情報部の監視下に置かれていたのだろう。でなければ、あんなに見事なタイミングで救いの手が差し伸べられるはずがない。
 銃弾があわや僕の胸を貫くかに見えた瞬間、マックスが軍用の麻痺銃でカザンザキス氏を仕留めたのだ。
「いつもながら無鉄砲な人だ」
 マックスはそう言って笑ったけれど、出来ればもう少し早く助けて欲しかった。
 僕は一瞬、本気で死を覚悟したのだから。
 それにしても…。
 連行されるカザンザキス氏の顔が忘れられない。
 彼は必死でマックスをかき口説いていた。
 軍人なら、自分に味方しろと。
 モルセール将軍の遺児とともに決起せよと。
 長期にわたる戦争は、それなしでは生きられない人々を作りだしてしまった。
 おそらく、父さんも…。
 そんな人々と熾烈に争いながら和平を実現したリュシアンの苦労を想うと頭が下がる。
 ノックの音がした。
「証人はこちらへ」
 廷吏が僕とマークを呼びに現れたのだ。
 僕らは顔を見合わせ、頷き合う。
「ビクビクしてても仕方ない。ど~んと構えて行くか」
 マークが言う。
 確かにその通り。何が要求されるのか分からない以上、怯えるだけ無駄だ。
 だが、一つだけ気になることがある。
 マックスに捉えられたカザンザキス氏が捨て台詞のように残した言葉だ。
「帝国の艦隊がジャニナ星域を取り囲んでいる。君たちがどう動こうが、再び戦争が始まるのだ!」

Posted on 6月 26, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (9)

2006.06.19

カザンザキス氏の誘惑

「君は自分の役割を教えられていないのか?」
 カザンザキス氏が言った。
 僕は男たちに羽交い締めにされていた。
「どういうことだ?」
「査問会のことも?」
 査問会? 僕が誰かに査問されると言うのだろうか?
「やれやれ、君は完全に蚊帳の外に置かれているというわけだ。ジャニナの秘密からも、帝国との外交問題からも…だが、確かにそれは賢明なやり方だ」
 ジャニナの秘密だって? 情けなさと怒りで頭がクラクラしてきた。”敵”が知っていることを、僕は何も聞かされていないのだ。
「何故僕を殺さない?」
 僕は半ば自棄になって言った。
「僕は絶対にあなたの言いなりにはならない。大人しくさせたいなら、さっさとその銃で…」
「君の父上は偉大だった…」
 カザンザキス氏の目は、こんな状況だというのに優しげだった。慈愛に満ちていたと言ってもいい。僕はその真意を測りかねた。父さんは…父さんの名は、賞賛の対象になるには汚れ過ぎているのだから。
「からかっているのか?」
 彼は否定の身振りをした。
「父上の行いは正しかったんだよ、アルベール」
 カザンザキス氏は真顔だった。パリを焼こうとした反逆者である父を、彼は真剣に高く評価しているのだ。
「父上は軍人としての責務を果たされた。”反逆”とは、市民や官僚から見た評価に過ぎない。父上は、あくまで軍人の倫理に忠実でいらしたのだ」
「軍人の倫理?」
「永続する戦争への忠誠だ。偽りの和平は市民の堕落を生む。アルベール、君は誤解している。父上は個人的な理由で艦隊にルビコン・ラインを越えさせたのではない。父上はあくまで…」
 僕は元上司の長広舌についていくことが出来なかった。彼の理屈によれば、父さんは帝国との和平をぶち壊すためにパリを攻撃したと言うのだ。
「だからあなたはジャニナで問題を起こそうとした。女王の暗殺を企て、公使館を爆破し…」
「戦争は社会の一つのありようだ。停戦は産業構造を激変させ、多くの人びとの生活を脅かす。偉大なフェルナン・ド・モルセール伯爵の息子なら分かるはずだ」
「うるさい!」
 僕は身をかがめて背後の男を投げ飛ばし、目の前の裏切り者に飛びかかった。
「残念だよ」
 そう言うと、カザンザキス氏は僕に向けて銃の引き金を引いた。

Posted on 6月 19, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (1) | トラックバック (15)

2006.06.15

再会

「久しぶりだね、アルベール」
 雨に濡れた壁を背にして、元上司は穏やかに微笑んでいる。どこかからバンドネオンの演奏が聞こえて来た。何度も繰り返される哀愁を帯びたフレーズ…。
「どうやってパリに潜り込んだのですか?」
 知らず知らずに詰問する口調になっていた。
「君と争うつもりはない」
 カザンザキス氏は両手を広げて見せた。
「そう言っても信じる気になれないだろうがね」
「何故ジャニナ女王を…?」
「政治的な見解の相違さ」
 彼は口元を微かに歪めた。
「あるいは利害と言ってもいい」
「公使館を爆破したのもあなたですか?」
「私ではない」
「質問を変えます。公使館を爆破したのはあなたの仲間ですか?」
「その質問には答えられない」
 僕は懐から銃を取り出した。ジャニナにいるとき、カザンザキス氏自身から支給されたものだ。
「僕と一緒に来てもらいます」
「それは困る。私にはまだ仕事があるからね」
 気がつくと、彼の手にも銃が握られていた。
「一週間でいい」
 一歩前に踏み出して彼は言う。
「ノルマンディーの私の別荘で過ごしてくれ給え」
 懐かしい地名だったが、追憶に耽る暇は無かった。
「僕に何をさせようと言うんです?」
「何もさせるつもりはないよ」
 またしても皮肉な笑顔。頬に深い皺が刻まれて、やけにやつれて見える。
「君には何の価値もない。ただ、君の不在に価値があるんだ」
「ふざけるな!」
 僕は彼に飛びかかろうとした。だが、頬をかすめた銃弾が僕の動きを封じた。
「僕に君を殺させないでくれ」
 まるで懇願するような言い方だった。
「いずれ、私たちが正しかった事が君にも分かる日が来る…」
 いつの間にか数人の男たちが僕を取り囲んでいた。
 僕は引き金に指をかけ、カザンザキス氏を見た。
 例え命を落とすことがあっても、この男を許す気にはなれなかった…。

Posted on 6月 15, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (11)

2006.06.07

雑踏の中に禍々しい顔を見た

 ユージェニーと別れて僕はホテルへと向かっていた。雨は上がって、石畳だけが濡れていた。そんな通りを歩くのはいい気分だった。なにしろ、この半年というもの、濡れた敷石を踏むなんてことが全然なかったのだから。
 たぶん僕はぼーっとしていたのだろう。彼女と久しぶりに会って、彼女はだいぶ大人びていたのに、僕にはさっぱり変化がないとか、そういうことを考えるともなく考えて。
 それは、外交官にあるまじき態度だった。
 とりわけ、内容は分からないながら、重要な任務に就いている身としては。
 そのとき、僕は雑踏の中、すれ違う人びとの中に知った顔を見たような気がして立ち止まったのだった。
 いったい誰だろう? よく知っているはずなのに、すぐには思い出せない。立ち止まって振り返る。それがよくなかった。その人物もまた、立ち止まって僕を振り返っていたのだ。
 彼は口元に皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
「カザンザキス…」
 変装したのか、人相はだいぶ変わっていたけれど、僕はそれが元上司であることを確信した。僕たちを裏切って、公使館を爆破した人物--。
 彼はそのまま路地へと駆け込んだ。まるで僕について来いとでも言うように。
 僕は反射的に彼をあとを追っていた。
 そんなことをしちゃいけない!
 分かっているのだけれど、自分を止められなかった。
 会って問い質したい--そんな気持ちが僕をせき立てていたのだ。
 僕は路地に飛び込んだ。
 建物の間の細い通路を走る男の後ろ姿が見えた。
 僕はそれを追って走った。
 走って、走って、そして…。
 僕はカザンザキスを袋小路に追い詰めた、と思った。
 もちろん、追い詰められたのは彼ではなく、僕の方だったのだけれど…。

Posted on 6月 7, 2006 日記・エッセイ・コラム | | コメント (0) | トラックバック (4)